モラトリアム中に考える

7月で勤めていた職場を退職し、8月に台湾へ10日間のプチ留学へ行き、実家に帰って来た。

人生の夏休み期間中…

実家へ帰って来た大きな理由の一つとして、ゴミ屋敷を片付けるということ。

片付けを始めて約10日が過ぎましたが、既に気力がダウン、もう東京へ戻りたい欲が出て来た(笑)

だって、モノの量が半端ないんだよ。

大量のモノは気力、精気を奪っていくんだね。

捨てても捨てても終わりが見えない。しかもやっててふと思った。「これってこの人達(両親、特に母)が働いてる限り、無駄な作業なんじゃ?」

父が片付けられないのは知ってたけど、仕事に必要な細かい物を家に持ち込んで来るのは母なのだ。捨てようにも勝手に捨てられない。

なので今はあきらかにゴミだとわかるガラクタだけ袋に詰めているんだけど、それだけだとスッキリした部屋にはならないだろう。

う〜ん…

とりあえず、全部の部屋をスッキリさせるのは諦めて、先ずは外の掃除と台所、風呂場、寝る場所だけでもモノを減らそう!

んで後はあの人達が仕事しなくなってもう仕事道具も使わない、となった時に業者の助けも借りて実行するか。

それが現実的な気がする。

よし頑張ろう。

他人から評価されることについて

 裏で言われていた事実

最近、職場のオーナーと話していて軽い衝撃を受けました。

それは、もう既に退職したスタッフSさんが、「Rさん(私のこと)じゃなくMさんと一緒にシフトに入りたい」と言ってたらしいというのです。私はその退職したSさんのことは色々趣味が合うし話していて楽しいから好きでした。それに相手も少なからず私に好意があると思っていました。(ちなみに職場は全員女)

なので最初にオーナーから「Sさんてばこんなこと言ってたんだよ〜」と聞かされても、「えぇ!そんなふうに思ってたなんて…!」とはならずに「どんな意図で言ったんだろう」ということが気になりました。

上司が言うには、私よりもう一人の同僚Mさんの方が細かい雑務を色々先回りしてやってくれていた、要するに気が効いて一緒にいてラクだから、そういう発言に至ったのだろうという話でした。

 なぜ〇〇さんと一緒にシフトに入りたいと言われなかったのか?

まぁその真意は本人に聞かないと分かりませんが、自分がそういう評価をされているという事実については反省すべきだなと思ったわけです。

もちろん、私はさぼっていたつもりはないし、普通に仕事をやっていました。

だけど、比べてみた時にきっとMさんの方が仕事をがんばっていると評価されるのは分かる気がしました。

自分の行動を振り返ってみて、雑務に限っていうと「人一倍率先して何かやった」自信が有るかと問われると、…うん…自信ない~_~;

てことです。私は普通にやっていただけです。頑張ったと思うのは、シフト協力や残業等、これらは誰より融通を利かせてきた自負があります。

なのになんてこった、私はMさんに比べると評価が低かった…!

 

Sさんが私をどう評価していたのか本当のところはわかりません。

しかしこのやり取りで分かったのは、その話をしてくれたオーナーが私の事を↑で書いたように評価しているということです。

オーナー自身も、細かい事に気が効いて世話をやくタイプではなく(本人も自覚している)、私とMさんを比べた時に、私の方にシンパシーを感じてくれているということは知っていました。私自身もオーナーのことは尊敬していて好きです。

だけれどここで学んだのは「ヒトは自分にないモノを持つ人を尊敬し、評価するものだ」(特に働く場では余計に)

ここをもう少し意識して行動していれば、何か違っていたのかな…?ということ。

ここまで特にトラブルもなくうまくやって来たつもりでいたけれど、やっぱフタを開けてみないと分からないことは沢山あります。

 

人から評価されることだけが全てではないけれど、他人と仕事していく上で働きやすい環境を築くのはとても重要です。

恋人や家族と違って、上司×部下という関係では、"職場以外での私"というパーソナルな部分まで汲み取ってはくれないからです。

 

あまり考え過ぎるとめんどくさいので、職場での人間関係はもっとライトに捉えていくことにします(笑)

 

これからの人間関係に活かしていこう。

他人から支配されること

黒沢清監督の「クリーピー 偽りの隣人 」を観ました。

あらすじは書きませんが…香川照之の変人ぷりが「こんな人居そう…!」と思わせるリアルな怖さでした。

引越し先のお隣の人、なんか変と思いながらもその男に引きずり込まれ、ある意味親密な関係になってしまう竹内結子に「なんでだぁ〜‼︎」と叫びました。

でもきっと、きっかけはちょっとした心の隙なんだと思う。えぇ?と思いつつも自分が弱っている時に甘い言葉をかけられたりするとそこに救いを求めて「もしかして、この人は私の事を理解してくれるかも…」などと思ってしまうんだろうね。そこら辺の描写はありませんでしたが。

それで気付いた時にはこれが「良くない状況」だと分かっていても抜け出せなくなっている。何故なら状況を変えるにはエネルギーが要るから。

その、「きっとこれはダメなんだ、分かっているの」という状況に身を委ねている事の方がラクだから。正しい感覚は時間と共にだんだんマヒしていき、深みにハマって抜け出せない。まさにアリ地獄。

ブラック彼氏から抜け出せないのもこれと同じ構図だと、己の反省も含めて思いました。

1番は、そういう人に引っかからない強さを持つ事=予防が大事。

だけど人は弱いので誰でも引っかかる可能性がある。そうなった時、「何かヘン」という自分の直感を信じて早い段階で退く勇気、場合によっては相手と対峙することも必要。

あと、こういう危険人物は周りとの接触を絶って洗脳していくので(やってる本人も無自覚な場合もある)、他人との関わりが大事だなと。自分の置かれてる状況を客観的に見るきっかけになるし(目を覚ますきっかけ)、自分の事を大事に想ってくれる人なら「何かヘン」という状況に気付いて動いてくれるかも。

怖いのは、大事な人=その支配する相手になってしまっている場合。恋人だとやはりこういう関係になりやすいんでしょうね。

これは中々抜け出すのが難しい。

そういう意味でも、大事な人は恋人や家族に限らず何人かいるのがいいかなぁ…

分散させる意味でも。

何にせよ、他人から理不尽に支配される関係は持ちたくないです。私は、抜け出せて本当に良かった。

もっと強くならねばならない。

日々精進ですね。

お菓子は大地の恵み

自分だけが食べるためにお菓子を買わないようにしようと思って(滅茶滅茶食べたいと思ったら買うけど)しばらく経つけど、意外と人からお菓子を頂く機会って多いものです。 もらった時は、普段食べない分ありがたく頂く!嬉しさも倍増♡f:id:pblkob:20170121122417j:plain 子どもの頃はお菓子なんて自分で気軽に買うものじゃなかったから、たまに食べる機会があるとすごい嬉しかった。 ひと昔前の人にとっての甘いものは、さらに貴重なものだったんだろうなぁ。 「暮らしの手帳」か何かで、子どもの頃の好物が甘いたまご焼きだったというエピソードを読んで、「あぁ、ほんとに甘いものって貴重だったんだなぁ。」と思うのと、なんていうか今の何でも食べられる時代が恵まれているということもそうだし、(特に)甘いものって本来はそういうものだよな、と思った。 私たちは、日常的に甘いものを取りすぎている。スイーツ等の目に見える甘さでなくとも、外食すればあらゆる物にお砂糖が入っているから怖い。 なんていうか、もっとこう自覚を持って甘い物の有り難みを味わいたいよね。 お酒もそうだけど、本来神聖なものだと思うから日常的に摂取するっていうのは私には性に合わない。 メリハリのある生活が好き。日時あっての非日常を大事にしていきたい。

幸せについて

自分にとっての幸福論をいつも考えているんだけど、

やっぱりすごい幸せを感じる時っていうのは、私の場合…

・天気のいい日にイヤホンで好きな音楽を聴きながら散歩してる時

スピッツとかゆらゆら帝国はっぴいえんど大貫妙子、あと最近PUFFYの「これが私の生きる道」聴いた時もすごいよかった♪

・好きな人たちと食卓を囲んでいる時

恋人に限らず、親しい友だち、家族との時間。ワイワイしながら美味しい食事♡

かなぁ。

あと小さな幸せは…

・仕事のあと、銭湯のお湯(特にジェットバス)に浸かる時…至福( ´ ▽ ` )

・一人でお気に入りの喫茶店でぼーっと考え事したり手帳開いてスケジュール組んでる時

まったりするのがキーワードみたい。

あと陽の光ってのも幸福度アップさせてくれる。朝が幸せ感じる時間帯だなぁ。

これらをこの先の未来でも維持させていくため、今出来ることを怠らないで生きていきたい。

映画「セッション」の感想

〜熱い!

熱かった。ひとこと感動。

あんなふうに熱中して、熱量を懸けられるものって自分にあるかなぁ…

というか、普通の人はやっぱりあのスパルタについていけんくて挫折するよ。

クライマックス。あの教授は鬼畜でファッキン野郎だったけど、それに負けずに挑んでいくアンドリュー(だっけ?)は強く、感動しました。それどころか最後の最後は彼の鬼気迫るプレイに圧倒されて、なんかもう復讐とかファック野郎とかそんな次元じゃなく、高次元なコミュニケーションになっていくところがすごくよかった。

言葉でなく。心を通わせる様子に震えました。(自分の語彙力の無さよ涙)

…それで、思ったこと。

何かを達成したり、あるレベルに到達する為に努力していることがあったとして、そこに障害が現れた場合。今回のスパルタ教師のように自分の求めるものの為に人格まで否定するようなハラスメント発言etcで一人の人間をうつ病、果ては自殺にまで追い込んでしまうような脅威的存在が自分の前に現れたら…

そこまでじゃなくても、例えばちょい役で登場する良い感じのガールフレンドのような存在も。

今までの自分を振り返ってみて、結局それらを乗り越えてまで達成したいと思えるものって自分には無かったかも知れないなと思いました。

だから壁にぶつかった時、悩んだ末に逃げるという道を選んできた気がする。逃げるというとネガティヴな響きだけど、その選択が間違いだったとは思わない。ただ結局そこまでの熱意が無かったということかもなと。

そう考えると、この映画の主人公のように、車に轢かれて血まみれになっても、大勢の前で屈辱的状況に立たされても執着し、立ち向かっていくエネルギーを懸けられるものがあることは非常に貴重だと思う。

普通はそこまでのものに出会えず人生を終えていく人の方が多いんだろうな。

一生自分探しっていう。

だからこそ超人なんだよね。

あ、もし子どもを持てばまた違うのかな。命を懸けられるくらいのもの=子どもに成るのかも知れない。

別にそれを持っていなくても良いとか悪いとかじゃないんだけど、持っている人はものすごい濃度で日々を送っているに違いない。

そんな人たちを、やはり少し羨ましいと思うし、自分なりにそんなものを見つけたいと思った。

私は天才や鬼才にはなれないただの一般人だけど、やっぱりストイックに生きてる人に憧れます。

だけどボーイフレンドとピザを食べる方に流れちゃうんだよな。どうしても人はラクな方に流れるから。

たまには立ち止まって自分が何処に進もうとしているのかと考えること。今の自分にはとても強いメッセージ性を持って響く作品でした。